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★032 人は、ときに仏心となり、ときにダメダメになる・・・。

たとえば福島の津波のときの消防隊員や地域のサポートスタッフ、施設の職員や学校の先生などの多くが「仏心」から行動され、私たちに「人間の尊厳」を強く感じさせた。みずからの命と引き換えに他の命を救ったひとも多く、涙も誘ったが。

こうした行動は日本人に多少顕著であるかもしれないが、他の国でも、ニューヨークの911のときの消防隊員のように、そうした行動は見られる。キリスト教の良い部分が出たともいえるけれど、むしろ人々に元々備わっていたものがそのギリギリの瞬間に発露するのだ、と考えたほうが納得がいく。

しかし同時に、(同じ)人がダメダメになっちゃうときもある。だいたいが、そういう場合は、人生は比較的うまく行っているようなときで、ちょっと油断している間に何かの事件が起こって、「感情」に突き動かされ、結果、ダメダメに至る・・・。「あれえ、あのひと、ああなっちゃうんだね」というよーな。

同じひとつの魂の中に、こうしたまったく異なった方向性の、ふたつの行動原理が畳み込まれている。極端にワクにはめた言い方をすると、人間は危機におちいると仏心の方が出てくる可能性が高く(特に日本人には、この傾向がより強いか)、逆に、人生が波静かなときに起きる突然の出来事にはダメダメになりやすいのかもしれない。

ひとは、完全に「白」とか、完全に「黒」とかいうことは、ない。あるときは白、あるときは黒。であるならば、いつも仏心サイドの「白」に自分を置きたいものだが、それには、どういう条件が揃うとそうなりやすいのだろうか。


まず第一に、「心が静かなこと」は必須条件のような気がする。

第二に、「自分の視点が、地上から少し上にあること」。

第三に、「世界全体が、柔らかい暖色に色づいて見えていること」。(※これは自分が世界をそういう温かい色に染めているわけですが)


と思うが、問題は「感情」なんである。それが上記の3つをかき回そうと、いつもあなたを狙っている。まあ、ダメダメな状態で人生の一時期を過ごすことも悪くはない、とも思うが、実際にはそのとき本人は結構つらいはず。決して楽しんでやっているわけじゃない。

しかし、ひとは行きつ戻りつしながら、徐々に、しかし必ず、その仏心の3つの状態へと至っていくと確信しています。遅いか早いかの違いがあるだけだ。

★031 お金をまったく使わないと、今まで見えなかったものが見えてくる。

お金を使わないことで知ることになるポイント、今日はその第二弾。「今までに見えなかったものが見えてくる」。見えてくる内容はバラエティに富んでいて、実にさまざまな、今までその渦中にいたのに気づいていなかったことが多いだろう。

前出の1年間お金を使わない実験のマークによると、食べるものの調達は、彼は田舎の農場の一部に間借りして暮らしているんですが、まわりの食べられる植物・キノコなどを食べ、都市で出る食品廃棄物をゲットし、自分の持っているスキルと食べ物を交換したりもする。しかし、ときによって、お肉を食べたくなったりもするかもしれない。

彼の実験は、まわりはまだお金を使っている社会があって、彼だけがお金を使わないわけで、まわりのお金を使っている社会から、いろんなものが彼のもとへ「落ちてくる」わけです。しかし仮に、まわりも完全にお金を使わない社会がやってきたら、チキンを食べたくなると、ちと面倒なことになる。

まず、どこかからニワトリの有精卵を交換かなにかで手に入れる。それをつぶさないように、しかし適切な温度になるように懐に入れたりして、なんとかヒヨコにする。そうしてそれがメスであれば、タマゴを生む。チキンが食べたいのに、なぜその母親を食べないかというと、そうしたら、一回しかチキンが食べられないから・・・。

で、彼女が生んだタマゴから、子のニワトリをエサを与えつつ育てる。ここで、やっとそのニワトリを食べてもいい状況にはなる。しかし、そのあなたが殺そうとしているニワトリちゃんは、あなたが大切に育てたニワトリであって、コッコッコッとか言いながら、あなたのことを親代わりのように感じて遊びに来るニワトリ君なのである。それを、ある日ある時、チキンを食べたい気持ちが臨界点に達したあなたは、突如、君子豹変して、首をつかむと両手でナムサンとか言いながらひねり、「コッ・・・」とかいう最後の鳴き声を聞きながら絞める。あなたはそうなふうに、ホントに殺せる?

できないでしょう。それだったら、飢えてたほうがましだと。でも、そうしないと、チキンは食べられないんです。私のばあちゃんは明治生まれでしたが、その当時は皆貧しく、時折ニワトリを絞めてました・・・。昔は、よく自宅の庭にニワトリを放し飼いにしてたんです。タマゴもそこから頂戴するし、ときに祝い事とかがあると、犠牲者が一匹・・・。

それで包丁で首を落として洗濯竿にひもで逆さにしばって血を抜き、のちに羽根を抜いていきます。で全体食ですから、臓物まで鍋などにしておいしくいただくわけですが、小さなタマゴの前段階のやつとかもお腹のなかに入っていて、それらの鍋を、私は子ども心にも、食べられなかった。でも私のばあちゃんも、心得ていて、子どもたちにその必殺シーンは見せないようにしていたのを今にして思う。

そのころはどこの家庭でも、これはやられていたと思う。親戚のばあちゃんも、新聞紙にくるんで、「ああ、これは今朝絞めたので、どうぞ」と貢ぎ物として持ってきたりしていたし。

現代では、田舎ではまだしているかもしれませんが、都市部では誰もようやりません・・・。それはお金を使う生活のなかで、各プロセス、特にあまり誰もやりたがらないプロセスを分業として、誰かに代わりにしていただき、そして血抜きもされ、羽根も抜かれて、切り揃えられたものがパッケージされてスーパーに並んでいるわけです。でも、お金をまったく使わなくてなおかつチキンが食べたいひとは、自分で絞めないとなりません。

「チキンを食べる」ということの一部にその一連のプロセスは含まれている。牛乳石鹸を3個200円で買ってきて身体を洗う代わりに、まずムクロジの実が熟するのを秋まで待って採取し、しかる後、それらを煮詰めて石鹸状のものをつくってからでないと身体が石鹸では洗えないのと同じように。

お金を使わないと、今まで見えていなかったものが見えてくる。見えてくるものに、見たくなかったものもあるし、見えてうれしいものもあるだろう。以下は、そのマーク・ボイルがお金を使わなくなって気づいたことの一部です。

◆近くにいる鳥の鳴き声を覚えた
◆常食に使っているキクラゲはニワトコの樹を好むことを知った
◆暖や調理のために使っている火元にニワトコ(エルダー)を燃やすのは問題ないが、ハンノキ(アルダー)を燃やすのは有害であることを知った

出典:「ぼくはお金を使わずに生きることにした」 マーク・ボイル著  紀伊國屋書店刊

★030 お金の多寡は、エネルギー量そのものである。

私たち人間のところに、「お金」という概念がやってきたのは、いつ頃のことだろうか。金属製のお金でさえ紀元前7世紀あたりからあった。石とか貝殻であれば、数千年前とか気が遠くなるくらい前からあったはず。これだけ長い間、私たち人間は「お金」を日常的に使ってきたので、細胞のなかのDNAに「お金」は既にしっかり刷り込まれている。まるで「火の危険」の刷り込みのように古くから、私たちのDNAの奥深くに。

2008年のリーマンショックから世界は、お金に関する「私たちの態度」に変化が芽生えたかもしれない。アメリカよりはヨーロッパの人々の方が、生き方に対する「反省」というか「自制」は強く現れるようで、いまヨーロッパで「お金を使わない生き方」「お金という制度を離れると、私たちの生活はどうなってくるか」実際に実験するひとも現れ始めた。

お金を少ししか使わない生活、というのは以前にもあったけれど、「まったく使わない生活」というのはけっこう過激であって、そうなるといったいどういうことが起こるのか、DNAに染みついた生活パターンが激しく反発するなか、慣性の法則をやぶって新しい世界に入っていくと、そこになにがあるのか、なにに気づくことになるのかはとても興味深い。

年限を限って、お金をまったく使わない生活に入るひとと、もう死ぬまでお金は使いません、というひともいる。死ぬまでお金は使いません、というひとはドイツの年長の女性。1年だけというのはイギリスの若い男性。そのいずれにせよ、やってみると大いに気づくことがある、と。No Moneyの気づきその1は、「お金の多寡は、エネルギー量そのものである」だ。

お金を使わないと、まず「物々交換」が起こる。しかし欲しいものと売りたいものが一致しない、というところからお金は生まれたともいえるので、必ずしも自分の欲しいものが手に入るとは限らない。あるいは、パンが食べたかったら、小麦粉とイーストとを手に入れて、オーブンのエネルギーに相当するものを調達する、という「ゼロからパン」パターンか、あるいはパン屋さんに行って販売手伝いとお掃除をするので、パンをひとつください、という労働力とのバーターをするか。

いずれにせよ、お金を使わないぶん、あなたの「時間」を使う必要がある。お腹がすいて動けなくなる前に、パンならパンを手に入れないと生命の危機さえある。都市であれば、捨てられた「じゅうぶん食べられる食品」を手に入れる方法もある。良質な水も大切で、ホームレスの皆さんは必ず自分の「水飲み場」を確保している。公園の水飲み場の近くには「家」が多い。

移動だって大変だ。捨ててあるまだ使える自転車を手に入れたとしても、電車で500円払えば行ける距離、たとえば40kmを自転車なら3〜4時間かかるかもしれない。復路にさらに3〜4時間。雨が降ったら雨宿り。歩けば片道8時間。夜本を読むための電気を得るために、発電機付きの自転車をこぐとすれば、1時間は負荷のかかる自転車をこがなければならない。おそらくパンをゼロからつくるのは、ほとんど不可能に近いくらい大変。パンが焼けたころには、あなたは痩せこけているかも。

つまり、お金とはあなたがそこにかける「時間」であり「エネルギー量」そのものである、ということに私たちは激しく気づくことになる。私たちは時間とエネルギーを「お金」で買っている、というのが本質なのだ。私たちは、通帳にプリントされた「エネルギー量」を見て、安心したり不安になったりしている、ともいえる。身体が人間の歴史のなかに何度も起きた飢餓を避けようとして脂肪をため込もうするのと、ちょっと似ている。

しかしここから分かるのは、その紙切れに記載された「余剰エネルギー量」がたとえ小さかったとしても、それを私たちの「身体的、時間的エネルギー」で補うことは、どこでも、いつの時代でもできる、ということだ。溜め込まれたエネルギー量の少なさが私たちに語りかけてくる「怖れ」は、必ずしも「実体」のあるものではないかもしれない。そのことが私たちの腑に落ちるのに、これらのNo Money実験は役に立つように思う。


付加データ(マーク・ボイルのケース)

◆洗濯に使う時間
お金あり:10分(洗いのみ)
お金なし:2時間15分
◆洗濯機で洗う場合の水使用量
お金あり:100リットル
お金なし:12リットル
◆水洗トイレの水使用量
お金あり:ひとり一日70リットル
お金なし:ゼロ(コンポスト・トイレ。土に穴を掘ってする)

彼は石鹸をせっけんの木(ムクロジ)を煮詰めて作っている。

出典:「ぼくはお金を使わずに生きることにした」 マーク・ボイル著  紀伊國屋書店刊

★029 お金を持たずに生活することは可能か?

テレビのドキュメンタリーで、ハイデマリー・シュヴェルマー(Heidimarie Schwermer)という、ドイツに住む、1942年生まれだから、今年70歳になる女性(元教師、現在心理セラピストでもある)が、自分の住んでいる家や持ち物をすべて手放してしまって、「お金のない生き方とは」という考え方を世界各地て講演しながら、実際に自分で実践して生活している様子をドキュメントしている。

この女性は、1994年に“Give and take central”というドイツで初めての物々交換の仕組みを設立。その2年後に、自分の持ち物のすべてをまわりに与えてしまって、自分は"一文なし"に。以後、実験的生活を実践しつつ、その考え方を世界に広めるべく、講演活動したり、メディアに登場したりしています。

この女性やそのサポートしているひとたちが、どうやって自分に必要なものを手に入れていくかというと、まずは物々交換。最初にえんぴつ一本もっている場合(たぶん、それも誰かからもらったもの)、それを次々にさまざまなひととトレードを繰り返し、その番組のなかで、持ちきれないほどのものに交換されていた。わらしべ長者のお話に近いか・・・。

これはテレビカメラで追っているからかもしれないが、ひとびとはおしなべて、やさしく接しているふう。彼女がドイツ初の物々交換組織のファウンダーだということが幸いしているかもしれないが、実験生活としてはやはり過激といえる。

寝るところは、友達や家族の家だったり、講演依頼者が用意したホテルだったりするようだ。そして、たとえば食品店のお掃除を買ってでて、交換に賞味期限切れ的な食品をゲットしたりする。

リスク管理のため、少額のお金は持ち歩いているようではあるが、日本円にして数万円程度。彼女は決してホームレスではない。着ているものもこぎれいで、アクセサリーも身につけ、人生を楽しんでいるように見受けられます。

彼女はいまヨーロッパで問題化しているユーロ危機にも触れ、世界はいずれ、お金のない世界に移行していく、と語っています。

確実に彼女にとって、お金を使っているときより、より良くなったと想像できるのは、「お金を失ったり、より多く得なければ、というストレス」がなくなったことだろう。だって、最初から持っていないわけだから。それと、まわりの人と交流して生きていかざるをえないので、たったひとりで部屋にいる、というような環境ではなくなる。まあ、それがかえってストレスというひともいるだろうが。

私がこのドキュメンタリーを観ていて興味深かったのは、彼女がテレビ番組で出たときや、パーティーで他のひとと交流するときなどで、「ああ、あの女性はまわりのお金をもっているひとたちからのドーネーションで生きているだけだから意味がない」的な、かなり"攻撃的な"意見にさらされることだ。私たちがお金を使いだしたのは何千年か前のことだと思われるが、それ以来、私たちのDNAのなかに、すでに「お金」は組み込まれてしまっているともいえるほど、身体が馴染んでしまった。それに対して、アンチな概念、お金がなくても充分生きられるし楽しいんです、というひとが目の前に来ると、それに対する反感・嫌悪感も大きいということだ。

激しい「価値観の戦い」。ひとりの人間にとって、「価値観」、ある生き方の価値はとても大切なものであって、それと別の生き方が目の前に提示されると、かなり反発するものなんだなと。生き方の基本ルールを、数千年の積み重ねから抜け出していくことの、風当たりは相当だが、でも、みんな興味はとってもある。もしかして、お金って、いらないの? お金を使わないと、どういう生活になるの? という興味は大変深いものがある。

私自身もひとり一カ月1万円の食費で生活はできる、という考えに共感するし、時間ができたらやってみたいとも思っているが、お金をまったく使わないとなると、そのぶん、自分のエネルギーはもっと使わないとならないだろうとも思う。1万円食費の場合もその分エネルギーは使うし。

イギリスには、1年間まったくお金を使わないで生きてみるという実験をした29歳の男性がいて、そのプロセスが本(「ぼくはお金を使わずに生きることにした」紀伊國屋書店刊)になっています。私もアマゾンで買ったのですが、まだ読んでいません。こっちは、若い男性だし1年間と期限があるからなのか、もっとハードボイルドです。洗剤を手作りしたり、すべての移動を自転車にしたり、太陽光パネルを使ったり、手作りストーブで調理したり。アウトドアっぽい。しかし、その生活には「豊かさ」があふれていた、と。

お金と豊かさかは完全にリンクしているわけではない。

なにかを手放すと、なにかが手に入る、という力学は絶対ある。

★028 既にあっちに行っちゃった人の魂のチカラをお借りする。あるいは、式神。

陰陽道では式神(しきがみ)と言うらしい。荒俣洋の「帝都物語」(全6巻、いまは文庫。長い長い物語だが、若いとき読んでめちゃくちゃ面白かった。角川刊)にも式神は出てくる。別の言葉でいえば、「使い魔」。

魔(この世ならぬ者)が、具体的な実体をもって、使い手の命に従う。「ハイッ、かしこまりましたあッ。喜んでー!!」って、居酒屋に行ってんじゃない・・・。

陰陽道では、それが元人間であるなら、完全に上の次元に行ききれずに、なにがしかの理由で途中でひっかかっている者と、ひっかかって上に行けなかったほどのその人の「こだわり」ドメインに同調することで歓心を買い、ほれほれそれやろか、と使ってしまうという方法。そういうと、なんか「ずるい感じ」はするが、必ずしもそうでもなくて、「その過去の人と一緒にもう一度人生を生きてみる」ような感覚もあるかもしれない。

陰陽師などのプロじゃなくても、これを現代的に使っているひとたちはいる。たとえば、老練な、あるいは気鋭の芸術家、アーチストなどによって、この"技法"は使われることがある。彼らは別に式神技法としてやっているわけじゃなくて、熱心さゆえに、自然にそこに至ったのではないかと推測する。

いまはこの世にいない人物から、ある種霊的なチカラを借りる。たとえばある役者が、歴史上の人物を演じることになるとする。平清盛とか。あるいは小説家がある歴史上の人物、それは必ずしも有名人でなくてもいいんですが、その人物をイキイキと描写しようとするとき。小説家なり役者なりが、その過去の人物に対して、「人となりやどんな生活をしていたかについて、かなり詳細に長時間調べていること」かつ、「感情移入」していること、「その人であれば、このことはどう考えたであろうか、とその人の脳のなかに入り込むくらいの想像をしている」ことなどが通常必要となる。

もっといえば、過去に実際に実在していない人物にもできる。現代の私たちが「想像できる」設定キャラクターということは、エネルギー的には、魂次元でそうした元型イメージは存在している。形はないが、元型としてはある、そこにアクセスし同調して、その元型ならば、こういう状況ではどう行動するか、としてプロットを動かしていったりするわけだ。

小説家の村上龍は、原稿用紙で確か70枚と言ったと思うが、書くと、その設定人物が自動的に動き出す、と言っている。村上龍だけでなく、ほとんどの小説家がたぶんそのように書き進めている。それは、実際に過去に存在したそのひと、あるいは元型から、その書き手の脳のなかに滑り込んでくる、あるいは作家の脳が上位次元の特定の場所に入り込んでいくイメージ。

あなたが、もしなにか特定のことを成そうとするときに、その分野で過去に活躍したある人間に協力をたまわることも、たぶん、できる。そのひとがあなたのなかに流れ込むほどに詳細に長い時間そのひとのことを考えつづけ、その人に感情移入していくと、たぶんそれは起こる。

でも、コックリさんみたいに、ゲームが終わってもずっと自分の肩の後ろあたりにいると、すっごく怖いので、ご協力をたまわったら、丁寧にお礼を申し上げて、お帰りいただくのを忘れないように・・・。

その過去の人にも喜んでいただけるようにこちらも行動する、描く、発展させる、ということが大切かと。ありがとうございましたあ、私もこれで少し成長しましたあ、あなた様はいかがですか? そうですかあ、楽しんでいただけましたかあ、それはなによりですう、と言えるように。そうすると、あんまり怖い方向に入らないような気がします。

★027 世界は、劣っているものほど愛おしい。

世界の発展に本当に必要なものは、バリエーションである。もっとも発展の可能性の低い世界とは「等質な世界」であって、それはもう、世界はここでおしまい、ということを語っているに等しい。

ダイナミックに発展していく世界は、「かつてない組み合わせの妙」から生まれるクォンタム・ジャンプである。いままでになかった美の様式をあらたに創り出すのは、いつの時代も「かぶきもの」たちなのだと言ってもいいだろう。

しばしばそれは、社会的には劣っているように見えたり、それはなんかまずいだろう、と思われたりするものだ。

世界は"劣っているもの"を抱きまいらせる(中矢先生から、抱きまいらせる拝借)。

そもそも、「劣っている」とは、社会性に則っての判断であり、比較によって成り立っている概念であるから、その"劣っている"対象自体がどのように幸せであり、どのように世界と折り合いをつけているのかはまったく無視している。

ハーフのこどもが美しいのは、遺伝子が遠いからだ(たぶん・・・)。世界は順列組み合わせであって、その「総当たり」から、ひょんなことで、「とんでもない可能性」が生まれる、というゲームなのだと思われる。

すっごく美人で頭もよくて性格もいい女性が、あれえ? なんであのひとがいいのお?という男性とパートナーを組むことがある。でも、当の本人は相手のどこかに強く惹かれている。それはそのひとのある部分に穴が空いていて、そこを相手の男性が埋めているのかもしれない。こうした組み合わせの妙は、いたるところにある。

意図しようとしまいと、私たちは不思議な縁で、ユニークなひとと結ばれる。だから、あなたとあのひとの関係もまた、世界でただひとつのユニークな関係であって、それは、あなたにしか作り得ない世界を醸す聖なる仕組みなのである。

社会的に役立つか役立たないか、という判断基準でさえもない。一見社会的に役立たないと見えたもののほうが、とんでもないイノベーションを巻き起こすことはしばしばある。

どこの親も、うまくいかない子ほどかわいい。 どんな組み合わせも、世界には輝かしい栄光なのだ。

★026 人間は「社会的生き物」である。

社会性は人間には必要不可欠なものと思っていい。それは男女を問わず、小学生から、じいちゃんばあちゃんまで年齢も問わない。

社会性は必ずしも「仕事」とは限らない。町内会の世話役だって、ボランティアだって、火の用心の夜回りだって、PTAの会合だって、なんでもいい。社会とつながっている、社会的に「役立っている」という感覚さえあれば。

私自身も30歳のときだったか、一度フリーランスになって、うまく仕事が入ってこないことが1年ほどあった。その後さらに3年ほど会社勤めをやりつつ独立の準備を充分にして、二度目の独立では仕事が来るようになったが、1度目のブランクの1年間、そのときは下北沢の古屋を借りていたのだが、午後4時頃の夕暮れ時になると必ず、ちり紙交換がやってきた。その口上を部屋のなかで聞いていたときに、夕暮れのパセティックな雰囲気とあいまって、「ああ、これはダメね」と感じた。なにがダメかというと、なにか「社会と切れてしまった感」がそこはかとなくしたからだ。

ひとには、どんなレベルであれ、社会とのつながりは大切である。しかし必ずしもそれは、「お金を稼ぐ」ためのものである必要はない。リタイアして、年金プラスアルファーで暮らせているおじさんにも社会性は必要だ。それはかみさんから、「んもー、ずっと家にいないでよ」と言われる前に考えるべき問題だと思う・・・。

うちの父は83歳で亡くなったのだが、亡くなる半年前まで彼のプロフェッションである電気管理関係の仕事をしていた。本人も家人も、身体の動くかぎりギリギリまで働いたほうがいいと思っていた。

うちの会社を退職したある男性は、たぶんいまは60代の最後のほうかと思うが、歌舞伎の好きなひとで、毎日のように、さまざまな講座や美術館や歌舞伎など、どこかしらに出かけている。なかなか賢いひとで、だいたい新聞やメディアには無料の招待やなにかがあるので、彼は交通費以外にお金は使っていない。その交通費さえも、ほとんどは歩いてしまうので、お金は使わないのだ。こうした社会との関わり方もあって、それはそれで楽しい。

いまのこどもたちは、景気の影響もあるが、でもそれだけではなく、むしろ「生き方」の変化が大きく影響していると思われるけれど、仕事につくことがむずかしくなっている。つい最近の政府系調査では、2010年の大卒の2人に1人(約50%)、高卒の3人に2人(約67%)が3年以内に仕事を辞めたりしているという。「社会適齢期」になった若いひとたちは、適当にバイトをしつつ、かつ親に養われ続け、親が物理的に死んで財産もなければ、どうなっていくのか。

こういうのは、今の社会の「仕事モデル」がもう成り立たなくなっているからではないかと思われる。学校で勉強するのも、なんのためにやっているのか分からないから嫌だ、仕事も自分がしたくないことばかりだから嫌だ、というわけだろう。でもだからといって、自分なりの「戦略」があるわけでもないのは悩ましいところだが。そのままいくと、生活保護モデルに至ってしまう可能性も高い。確かに彼らのスキルや学習心が低いのかもしれないが、でもそれだけではない。社会そのものの制度疲労がある。

精神的にハンディのある方なども、当然ながら、同じように生きていかなければならないわけで、そうした場合でも、この「社会的生き物」法則は生きている。しかし、大学を出た健常者でさえ、上記のようなありさまだから、社会性を手に入れつつ日々の糧を得るのはさらにむずかしいかもしれない。こうした場合は、「要求レベル」を一段か二段か下げるしかない。ちょっとでも、できれば万々歳だし、別の種類の社会性が代用できたら万々歳というふうに。自分のこどもが、不幸にして登校拒否になり、働きにも行かなくなった場合も同じで、「社会的要求レベル」を下げるしかない。下げたからといって、必ずしも、その人の人生の質がいちじるしく棄損される、と考えるのは間違いと思う。人間の幸せは、実に多層的なものであって、表層のひとつがもたらされないからといって、即それが不幸なわけではない。

社会性は「どんな種類のものでもいい」、というのがひとつのポイントと思う。「ひととつながる喜び」、「ささやかなものであっても社会の役に立っているという喜び」、こうした喜びが見いだせる"社会性"さえあれば、人間の幸せ、人間の生活の質に必要な要素の、大きなひとつを手に入れることができるはずだ。

社会が大きく変化しようとしている今、ひとの心理と生活の質に配慮した「新しい社会性の仕組み(社会参加モデル)」を提案し、やりとげるひとが現れてほしい。 神さま、ひとり、そういうひとをくださーい!!

★025 「行き違い」「勘違い」こそが、人生の醍醐味である。

ロメオとジュリエットのテーマがなにかと問われれば、純愛とか家と個人の葛藤とか、いろいろあるかもしれないが、大きなテーマのひとつは、「行き違い」だと思われる。このシェークスピアの物語のラスト部分では、「すれ違い、行き違い、勘違い、わずかな時間のズレ」で人生に大きなドラマが発生する。そしてそのドラマを体験したあとの他の登場人物の後日談は語られていないが、きっと皆があることを学び、そのイベントの「使用前」と「使用後」とでは、彼らの行動パターンも世界認知も変わっているはずなのである。

あなたはこの物語を、昔々映画館で観たとか芝居小屋で観たことがあるかもしれないが、もう一度ここで思い出してみよう。

この有名な悲恋物語は、「ささいなすれ違いから起こった不運」を描いたといっても過言ではない。家同士で争うふたりの恋を成就させようとして、薬剤師がジュリエットを薬草で仮死状態にして死んだと見せかけ、両家を和解させようとする。しかし、その裏の仕組みをロミオに伝えるのに伝達ミスがあり、ロミオは、ジュリエットが「本当に死んだ」と思い、ジュリエットの遺体が安置されている霊廟でジュリエットの死んでいない"遺体"と再会。 ロミオは、ジュリエットの死を嘆き、持参した毒薬をあおって(先に)死んでしまう。しかも、その後、ご丁寧にも、目を覚ましたジュリエットはロミオの死を嘆いて、ロミオの短剣で自分の胸を刺し死んでしまうのだ。

もし、事前にその仕掛けがロミオに適切に伝わっていたら。もし、ロミオが少しの時間、遅くジュリエットのところに来たら。すべてはハッピーエンドになっただろう。少なくとも、ふたりとも無念のうちに死んでいくことはないだろう。

しかし、私たちの人生では、もちろん必ずしも人生がそうでなくてもいいんだけれど、しばしば、適切なタイミングからほんのちょっと時間がずれたりするのだ。そしてそこで、私たちの感情は沸騰し、焦りまくり、戦闘モードに入り、深い悲しみに沈み、人生はそのカタチを激しく変形させる。しかしそのことで自分が死ぬところまで追い込まれるほどでなければ、私たちはそこから、しばしば、ある重要なレッスンを学んだりする。

人生の重要で有無を言わさぬフレーバー、「すれ違い」「行き違い」「勘違い」「時間のズレ」は、その時点では好むと好まざるとに関わらず、私たちの人生に強烈な色合いをつけてくれる。そしてそれはしばしば、時間が経ったあとには、「人生の忘れられない体験」として深く記憶される。

私たちの人生にこうした、ちょっとした齟齬(そご)がなければ、人生はいつも適切なタイミングでものごとが起こり、考えさせられることもなく、印象にもあまり残らず、のっぺりした時間がだらりと続いていることになるかもしれない。印象に残るイベントや、困難を乗り越えた素敵な体験も少なくなるだろう。

人生の醍醐味、人生のダイナミクスとは、「すれ違い、行き違い、勘違い、わずかな時間のズレ」にこそある。

★024 役に立つ地図、役に立たない地図。

私たちはどうも、常に頭の中に「地図」をつくってしまう生き物のようだ。その地図をもとに、世界を観て、「判断」「行動」をしていく。むずかしいのは、一度自分の頭の中に、あるひとや状況に対して「白」「黒」の地図が生成されてしまうと、その地図を改めるためには、大きなショックを必要とする、という部分にある。そうしたガチョーン体験を通過しないと、その古い地図は変わっていかず、そのひとを支配しつづけることになる。

たとえばあるひとをいったん「黒」と地図のなかで分類してしまうと、そのひとが白である行動をしても、受け入れられない。しかしながら、実際の世界では、あるひと、ある状況は、100%白、100%黒どちらかだけということはありえない。状況によって、時間によって、あるときは白、あるときは黒と変わっていく。変化だけが真実なのだ。

このへんの事情をエンターテイメントとしてよく描いているのが、2005年の映画「クラッシュ」。先日テレビでもやっていた。アカデミー賞の作品賞を受賞している、よくできた映画。群像を別々に描きつつ、それらが後に互いにつながりあってくる、という群像映画なのだが、味わいのある映画になっている。

映画のなかのひとつの例。ある人種差別主義者(黒人嫌いレイシスト)の白人警官が、日常にたまるフラストレーションから、街で出会った黒人の夫婦をネチネチいじめ、黒人の奥さんに夫の前でセクハラまでしてしまう。その奥さんがトラウマになるくらい。しかし、またあるときには、彼女が交通事故を起こして生命の危機にある状況から、たまたま駆けつけたレイシストの白人警官が、その同じ黒人女性を命を賭して助け出すのだ。

この一見矛盾した行動は、その警官自身にとっては、まったく矛盾していない。「黒人はろくなやつじゃない」という地図と、「危機に直面しているひとは、命をかけても助けなければならない」という地図は、彼にとって同時に存在する別の地図であって、その時々でひとつの地図に行動が、かきたてられているだけなのだ。つまり、地図はよくも働くし、悪くも働く。救われた彼女には、この救出劇をきっかけに、大きな許し(地図の書き換え)が起こるのも興味深い。

映画のなかのもうひとつの例。その白人警官とバディになった別の白人警官は、リベラルな思想をもっており、レイシストの同僚が嫌いだ。だから、レイシスト警官がいじめた黒人の夫と別の場面で出会うと、全力で彼を窮地から救ったりする。しかし、ひょんなことから、ある別の黒人との会話で感情を爆発させてしまい、ポケットから聖人の像を出そうとする黒人を射殺してしまう。これも、「黒人は守るべき対象だ」という地図と、「言い争いをしているときに、ポケットに手を入れたらピストルが出てくる」という地図。地図は必ず役に立たないわけではなくて、役立つ局面もあるが、私たちの行動を一方向に方向づけてしまう、という部分が厄介だ。

こうした例は、私たちの日常生活でも頻繁に起きている。ロサンジェルスではないから、ひとが殺されたりはしないのだが、この、いったん頭のなかにできてしまった地図を白紙にもどすことができずに、判断をあやまる、行動をあやまる例は、あまりにも日々私たちの日常で起きていて、いちいち指摘もできないくらいだ。だいたいは、ひとに対して起きていることが多い。そしてその相手への対応が歪んでしまう。

ひとや状況は、白か黒かどちらかに決まっているわけではない。

私たちは、自分の頭のなかにある「地図」を認知しにくい。地図は透明化する。

役に立たない地図は、大きなガチョーンに発展してしまう前に、まず「その地図を認知し」、しかる後、「必ずしもその地図が発動しなくてもいい、つまり、対象は白か黒かは決まっていない」と冷静に再認識する。このプロセスは、透明化した地図を明確化し、その後に無効化してくれることに、うまくいけば、なるだろう。

★023 世界もまた輪廻する("完璧な"ひとつが分裂するとき)。

人間は自分がいまいるところからすべてを発想するクセがあるので、アメリカ地図はアメリカが世界の中心だし、中国も日本もそのようになっている。また、私たちは地球は不動で天体が動いていると認識しがちだ。そもそも、ほとんどのひとが、いまあるこの世界が唯一無二の世界であると思っているのではないか(これを読んでいるひとは、ちょっと例外?)。

世界は、ひとつから分裂して、途方もない時間をかけてあらたな世界の実験をおこない、また前とは別の収斂の仕方をして"完璧な"ひとつになる。そしてまた分裂しては次の世界を試しに行く。というモデルを考えています。

完璧な、にチョンチョンをつけたのは、「いわば」(たぶん)という気持ち。長い時間をかけて世界が、完璧なひとつになっていくとき、いろいろな要素が「バランス点」をみつけ、「こういう世界のまとめ方もあるんですね」という、"多様な完璧"のひとつとして存在していたのではないか。つまり世界に、たったひとつしかない「完璧」というものはない、だろうと。

現在進行している世界の一個前の完成形が、今回ビッグバンした最初の最小点だったとすれば、世界もまた輪廻することになる。あるいはリニアな時間が幻想なら、いくつもの世界が同時に進行していて、そのなかの「"出来のいい"進行の宇宙」のみが世界として生き残る「世界レース」になっている可能性も・・・。世界の本当の仕組みはわからないが、それが同時であれ、リニアであれ、「世界もまた輪廻している」可能性は高い。

「分岐していく世界」というバシャールのコンセプトからしても、パラレル・ユニバース理論からしても、世界は単一でない可能性は高く、そしてそれは、"完璧"をめざして、輪廻している可能性も高い。

週末にまた映画を観た。「トライアングル」という映画で、時間がループとなって何度も繰り返される。それに気づいた主人公の女性が、「毎回同じ」行動をしていると、ループから抜けられないので、少しでも違う行動をしようとするシーンがある。私たちの世界もこの映画のように、なんども世界の可能性を試そうとしているのかもしれない。あるところまで似たようなものになっていくが、そこから先は、実に微妙な解決法をさぐらないとならなくなり、進化は簡単ではなくなる。つまりどうなっていくのが進化・進歩か、不明になってくる。

 ビック・バンから膨張して、その過程でさまざまな元素、さまざまなタンパク質となってこの世界を構成し、その一部はヒトとなり、意識や意図をもつようになり、その意識や意図が、世界に起きることを規定していくまでになる。そこからが難しいだろう。どの世界が"完璧に近い世界"なのかが。

最終的には、「まあ、これでいいかあ」「以前のよりは、ましだぞう」と神さまさたちが寄り合って言うことはあるかもしれない。が、そこに至るまでには相当に長い長い試行錯誤があるはずだ。

私たちの命の輪廻転生のように、世界もまた輪廻している。

そしてその世界の完成度に対して、あなたはいつであろと、確実に関わることができる、と考えている。

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